太極拳の理論を語った書物は多いが、大体において記述が抽象的で難解である。
太極拳は「気」のエネルギーを使う。
しかし、断言しておくが、気で相手は倒れてはくれない。
太極拳は「意」を大切にする。
しかし、「力を用いず意を用いよ」と言ったところで、一般の人たちには意味不明となる。
太極拳は「勁」を使う。
「勁」は相手に直接作用する力で、「気」や「意」のような抽象的な概念ではない。
「勁」は物理学でもって説明できるのである。
太極拳の「勁」を、科学で語ってみることにしよう。
「勁」を定義するとすれば、全身全霊で発する力であり、全身がつながった力となる。
中国武術において部分的に筋肉を鍛えようとする発想はない。
もし、ライオンや熊が一部の関節を固定して、筋肉トレーニングを始めたら変に思うだろう。
それと同じだ。「勁」とは全身で生み出すものであり、部分的に筋肉を鍛えて可能となる力ではない。
では、全身がつながるとはどういった状態なのか?
一本の鎖をイメージしていただきたい。
どちらの端を振っても、力は、もう一方の端に伝わる。
「勁」の流れとは双方向である。
この鎖を例に身体構造を描くと分かりやすい。
4本の鎖が身体の重心である丹田を起点にして四肢の末端に伸びている。
相手の動作を受けるときは、指先から運動連鎖が始まり、丹田を励起させる。
また、勁を発するときは逆で、丹田が力の起点となり、四肢の末端が相手に作用する点となる。
太極拳の教えに「三節」と言う言葉がある。
物理学でいう、力点、支点、作用点だ。
「勁」はこの、力点、支点、作用点の順に伝わっていく。
相手の攻撃を受ける場合は、相手の動きをまず指で読み取る。
その動きが、手首を支点として肘に伝わり作用する。
こんどは、手首の動きが肘を支点にして肩に作用する。
つまり、支点が移動しながら、運動連鎖が生まれるのだ。
運動連鎖の理論は「三節」として、太極拳以外に形意拳などにも伝承されている。
しかし、太極拳の「勁」は少し異なる。それは、太極拳の勁が「纏絲勁」であるからだ。
つまり、太極拳の力は螺旋を描く。では、どうするのか?
太極拳はまず相手が動き出す気配を中指で感じ取り、小天星(豆状骨)に作用する。
今度は、小天星に支点が移り、肘が動き出す。次に、肘に支点が移り、肩が動き出す。
この螺旋の動きが、背骨へと伝わり、体幹の中心線を通じて丹田を励起させる。
「勁」を発するときは、逆である。 まず、丹田を回す。
これが、力の起点となる。丹田の動きが仙骨を支点として骨盤全体に作用する。
丹田の僅かな動きは、外からは見えないので「内勁」と呼ばれる。
「内勁」で生じた腰の動きは、背骨で加速され、肩、腕へと伝わっていく。
背骨と肩は、関節で直結しているわけではない。
背骨の動きを肩に伝えるためには、「含胸拔背」と言われる姿勢をとる。
背骨の動きを、胸骨を支点にして、肩甲骨を左右に開くことにより肩に伝える。
この力学原理を理解していないと「勁」を人に教えることはできない。
また、武術は大地の力を利用する。
足の指が力点であり、膝を支点にして股関節を動かす。これが、下半身の運動連鎖である。
親指を中心に大地を掴み、この力でもって、腰がピーンと立った意識をもてることが重要となる。
大地の力を、膝で加速させ腰に伝え、さらに背骨で加速させ、この力を相手の体内で爆発させる。
これが「勁」の流れであり、「勁力」と言われるものである。
冒頭で一部の関節を固定して、部分的に筋力を鍛えるのは不自然だと説明した。
太極拳はパンチ力や蹴りの威力を競い合うものではない。
非力な女性でも、相手を倒すことができる。それが勁力であり、技であり、武術である。
誤解して欲しくはないのは、勁力を獲得するのは決して簡単ではないと言うことである。
それは、全身の動きの調和によってのみ可能となる力であるからだ。
正しい師匠に出会い、一定期間の指導を受け、動きを修正されながら、汗を流す必要がある。
「三節」の教えは、力の伝搬において、真ん中の節が、力の起点となることを戒めている。
つまり、力の起点は鎖の両端、身体構造では、丹田、手の指、足の指である。
もし、手首、肘、肩が先に動くようであれば、それは、筋肉の力であり勁力とは言えない。
冒頭で述べた、「力を用いず意を用いよ」とはこう言うことである。
なぜなら、中指の先端、足の親指の先端、丹田は「意」によって動かすものだから。
また、「気で人は倒れてくれない」とも言った。
それは、「気」は位置エネルギーのようなもので、「勁」という力に変換して始めて人に作用する。
「気」で人を倒すとは、間接的な表現で、科学的な説明になりえない。
「気」を練っても、「勁」を練らないと、武術にならないと言うことである。
太極拳の練習は内勁を獲得して、纏絲勁による運動連鎖を練ることである
「勁」の追求に終わりはない。ほとんどの人が、「勁」がわからないまま挫折しているように思える。
「勁」の高みを目指し、共に、汗を流そうではないか。