現代太極拳を見ると、スポーツ的な動きになっており、競技用の早い太極拳は肩を振ることにより動いている。胴体が棒か丸太のように一体で動いている。
そこには、丹田を起点とした背骨の伸縮としなりがない。
太極拳は内家拳であるが、現代太極拳にはその特徴が見られない。
また、歩幅が広く低い姿勢をとる場合が多く、足の筋肉で重心をゆっくりと移動させている。
足が重たく、太腿の筋肉を使い、重たい胴体を上に乗せているイメージとなる。
これでは、敵と戦うことはできない。
勁なくして武術にあらず、その伝統の内勁とは?
現代太極拳を見ると、スポーツ的な動きになっており、競技用の早い太極拳は肩を振ることにより動いている。胴体が棒か丸太のように一体で動いている。
そこには、丹田を起点とした背骨の伸縮としなりがない。
太極拳は内家拳であるが、現代太極拳にはその特徴が見られない。
また、歩幅が広く低い姿勢をとる場合が多く、足の筋肉で重心をゆっくりと移動させている。
足が重たく、太腿の筋肉を使い、重たい胴体を上に乗せているイメージとなる。
これでは、敵と戦うことはできない。
「太極拳はなぜゆっくり動くのですか?」
たまにこういった質問を受ける。
ウェブを見ても、武術的な見地から説明されている例が見当たらない。
何故なのだろうと不思議に思う。
太極拳の動作には、言葉だけが一人歩きして、内容が理解されているか、はなはだ疑問に思うものが少なくない。「引進落空」はその代表格ではないだろうか。
「引進落空」は太極拳の本場中国でも抽象的な論議だけに終わっているように思える。
これは太極拳の伝承者が圧倒的に少ないことに起因しているのかも知れない。
顔面へのストレートパンチをあなたはどのようにかわしますか?
後ろに下がる。横にかわす。斜め前にでる。
いずれにおいても、鉄則がある。それは、二目平視(にもくへいし)である。
なぜ、この二目平視が重要なのか語って見よう。
日本の武術には「先の先」「対の先」「後の先」といった意の世界の言葉がある。
中国武術である太極拳にも同様の教えがある。
「彼不動己不動,彼微動己先動」、これは武禹襄老師の言葉である。
「彼動かず、我動かず、彼に微動あらば、我先に動く」
人間のパワーの源は足腰である。これに異論を唱える人はいないであろう。
足と腰は二つの関節でつながっている。
この股関節の動きを制したもののみに、達人への道が開かれている。
太極之呼吸 全集中常中 武術を極める呼吸法とは
「鬼滅の刃」の漫画、動画、映画が日本だけでなく、台湾、中国でもブームとなっている。
この物語では、それぞれの剣技の流派は「水の呼吸」、「炎の呼吸」、「風の呼吸」のように呼吸を名称としている。また、鬼殺隊の最高位の剣士は「柱」と呼ばれ、「全集中常中」の呼吸法を身につけていることが最低条件とされる。 武術を極めようとする者達にとって、呼吸の存在はいかなるものなのか。 達人の域に踏み入れし者達は、どのような呼吸法を会得されているのだろうか?
私なりに「全集中常中」の呼吸法を考察してみた。
武術において「正中線をとる」とよく言われるが、どういった意味合いだろうか?
私の理解では、相手にやられると思わせる瞬間であり、
言い換えれば、こちらは、もらったと思える瞬間となる。
打撃系の武術では「先の先」と合わせて説明される場合もあるように思う。
私は、力学的な角度から説明ができるのではないかと考えている。
「正中線をとる」は、中国武術にはない表現だが、私の武術の経験から語ってみたい。
太極拳の理論を語った書物は多いが、大体において記述が抽象的で難解である。
太極拳は「気」のエネルギーを使う。
しかし、断言しておくが、気で相手は倒れてはくれない。
太極拳は「意」を大切にする。
しかし、「力を用いず意を用いよ」と言ったところで、一般の人たちには意味不明となる。
太極拳は「勁」を使う。
「勁」は相手に直接作用する力で、「気」や「意」のような抽象的な概念ではない。
「勁」は物理学でもって説明できるのである。
太極拳の「勁」を、科学で語ってみることにしよう。
太極拳に玉女穿梭 (ぎょくじょせんさ)という技がある。女性のようにしなやかに、左右の敵を誘い、バッサバッサと交互に倒していく。穿梭とは左右の行き来のことである。